逢坂冬馬著の「同志少女よ、敵を撃て」を読みました
第二次世界大戦中のロシアとドイツの戦線での女性狙撃兵の物語です
1人の女性狙撃兵の生き方から、戦争の悲惨さや人間の脆さを感じました
あらすじ
独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵”とは?
公式HPより
感想
戦争の悲惨さ
ドイツの攻撃で母を殺され、村を焼かれた少女セラフィマが戦争の中で、戦うか死ぬかの選択を迫られます
平和な生活からいきなりそんな状況になるなんて、今の日本では考えられません
しかし、80年前、第二次世界大戦中では世界各地でこういった状況になっていたと考えるととても恐ろしいです
人殺しが正当化される戦争の怖さ
人殺しはどんなことがあっても許されることではないと思います。
しかし、戦争の中では、兵士が人を殺すことは当然で名誉とされています
平和な世界で生まれて育ってきた世代は、この異常な状況がどうして認められるのか全く理解できません
一つの要因としては、復讐の連鎖が大きいと思いました
復讐の連鎖
戦争は復讐を必ず生み、復讐の連鎖で拡大して誰も止められなくなります
誰もが自分の大切にしていた宝物を壊されたとき、それを壊した人に仕返ししたい、目には目を、歯には歯を、と考えます
その対象が特定の個人であれば、それで完結しますが、いざ戦争となると政府の印象操作もあるかもしれませんが、たびたび抽象化が起きます
一方では、敵国ロシア人が大切な人を殺した
もう一方では、敵国ドイツ人が大切な人を殺した
そうすると、特定の個人ではなく、ドイツ人とロシア人というとても広い概念で、復讐が行われることになります。
こうなってくると、復讐には終わりがなく、やめられなくなってきます
ここまでくるとどちらが悪いというものでないと思います。
自分がどちらの当事者だったとしてもまったく同じ選択をしていると思うからです
だからこそ、人が死ぬ、人を殺すことが正当化される戦争は絶対にしてはいけない
主人公のセラフィマも狙撃兵として、人を殺すということに悩み続け、正当化する理由を探し続けていました
また、戦争が終わった後の世界でどう生きるべきかを考えていました
しかし、答えはなかなか見つからず、同じように戦った仲間の中の一人は精神を病んでしまいました
やはりどんなことがあっても人を殺すということは正当化することができないため、自分を責め続けてしまうんだと思います
それはとても悲しいことだと思います
歴史の教養の幅の狭さを実感
歴史の授業では第二次世界大戦について、日本がどう戦ってどう負けたのか、日本が真珠湾攻撃を仕掛けてからどれだけの犠牲が出たのかということくらいしか学んでこなかった気がします
だけれども、当然、日独伊三国同盟で連合国と戦争していたのだから日本以外でも戦いが起こっていました
少し考えればわかることですが、ロシアとドイツでもこれだけの悲惨な戦いが起こっていたことをこの本を読んで初めて知りました
自分の教養の狭さを実感しました。
まとめ
物語としてとても面白く一気に読むことができました。
そんな中でも、とても考えさせられる本でした。
また、自分の勉強不足も実感させられました。
ぜひ読んでみてください。
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